連載エッセイVol.35を掲載しました

なぜだろう、なぜかしら 「馬・塊・鉄」編

廣野 喜幸

馬を水辺に連れて行くことはできるが水を飲ませることはできない。

イタリアの科学コミュニケーション研究者ブッキ博士の有名なデータがある。これによると、科学知識に接している時間が長ければ長いほど、正確な知識を得ているわけではない。ということは、強制的に知識を与え続けても科学リテラシーが向上するとは限らない。言われてみれば当たり前だろう。いやいややっても成果は上がらない。自然の知識を得たいと願っている人を相手に、伝え方をいろいろ工夫するのも科学コミュニケーション研究の重要な課題だが、得たいという動機付けをどうすれば促すことができるかは、それ以上に大事である。ところがこれがとてつもなく難しいのですね。科学コミュニケーション研究の中でも悩ましい課題の一つになっている。

塊より始めよ。

どうすればより多くの人々が自然の知識を得たいと思うようになるのか。まてよ。私だって自然科学者だ(った)。なんでそうした動機をもつようになったのだろう。と考えているうちに少しずつ思い出してきました。私は浅草で育った。もう存在しないが、小学生時代仲見世に本屋さんが二件あった。中程にあった店でよくねだったのは(数年後に廃刊になる)月刊漫画雑誌。『ぼくら』を毎月買ってもらうのが楽しみだったなあ。雷門寄りの端の店では科学読み物が目当てだった。今も鮮明に覚えているタイトルは『なぜだろうなぜかしら』。学年別に出ている上下巻を、1年上から6年下まで半年ごとに計12巻買いそろえてゆくのが、これまた無上の喜びだった。あきずに読み返したものだ。

鉄は熱いうちに打て。

あれだあれだ。雷が電気であること等等、多くの知識を得たのはこのシリーズだ。それが高じて中学生時代には生物部(と卓球部)に所属するようになり、大学院で生物学を専攻するに至ったのだった。だとすると、動機付けの観点からは、幼いうちに良質な科学読み物に接することが、やはりとても大事なのではあるまいか。そう思えてきたものの、こんな朧気な記憶だけでは心許ない。あのシリーズのどこが私をそんなに魅了したのか。まずは実物を見て確かめてみなくては。だが、かつて大事にしていた全12冊は、整理整頓が大好きの父の圧力に屈し、他の「お宝本」とともに捨ててしまった。(返す返すも残念。せめて古本屋に売るべきだった。)さて、どうしたものか。

次回『なぜだろうなぜかしら』を尋ねて三千里編をどうぞお楽しみに。再見!

2010年6月28日号

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