連載エッセイVol.39を掲載しました

信じることと疑うこと

藤垣 裕子

ほぼ9ヶ月ぶりに取れた休暇で訪れた北海道の友人宅で、全24巻にわたるある漫画本を読了する機会を得た。その漫画のなかで気になる一言を見つけた。聖職者が警察官にむかって言った言葉である。「あなたたちは疑うのが仕事だが、我々は信じるのが仕事でね。」はて、では科学者は疑うのが仕事だろうか、信じるのが仕事なんだろうか。

まず考えられるのは、科学者は疑うのが仕事、というものである。たとえば、「日常のなにげない事柄の背後にあるメカニズムを疑ってみよう。」「自分で疑問に思って考えることが大事である。」「なぜだろうなぜかしらと疑ってみよう。」などである。科学者は信じるより疑うのが仕事、もちろん警察が疑うのはひとの言動だが、科学者が疑うのは自然の挙動を説明するやりかたであるが。

しかし、同時に、科学者をめぐる伝記を読んでいると、はた、と考え込んでしまう記述によくあう。「キュリー夫人は、この塊のなかに放射能が存在することを信じて、毎晩のように同じ作業を続けた。」「OOは、理論式からこの星が実在することを信じて、観察を続けた。」はて、ここでは科学者の仕事は信じることになっている。科学者の仕事とは、疑って、かつ信じることだろうか。

さらに考察をすすめてみよう。科学者の仕事とは、自然の挙動を説明するための理論を自然の示す事実をもとに作り上げることである。これまでの理論と、発見された事実との間に齟齬がある場合は、理論を疑う、または事実(測定値、画像データ、その他)のほうを疑う。その試行錯誤のプロセスを経て、より包括的な理論を考える。したがって理論も、そして事実の説明の仕方も、常に書き換えられる。科学の本質は、書き換えられることにある。聖職者にとっての教典(聖書に相当するもの)が、そう簡単には書き換えられないのに対し、科学の最先端は常に書き換えられるのだ。

そうだとすると、書き換えの途中で生じることは、新しい知見がでてきたときに、それまでの理論や、その事実を「疑う」こと、および新しい知見を説明する自分なりの論理を「信じて」、気の遠くなるような確認作業を行うこと、になる。科学者の仕事が、「疑って、かつ信じる」ことであるのは、この書き換えプロセスがあるためである。

書き換えられることは科学の本質である。話が二転三転するからといって、科学への信頼を失うというのは本末転倒である。そもそも自然の挙動の説明の仕方は、二転三転して当然なのである。

2010年10月29日号

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