連載エッセイVol.88を掲載しました

ループ効果と科学コミュニケーション

石原孝二

科学的研究はその対象に影響を与えることをそもそもの目的として行われる場合がある。例えば人間にとって有害な細菌の研究はそのコントロールを目的としている。人間は科学的研究の実践を通して、研究対象と相互作用を行っているのである。心理学や精神医学などの人間を対象とした研究はこうした相互作用に加えて、研究や臨床において用いられる概念そのものが人間の行動に影響を与えるという特徴を持っている。科学哲学者のハッキングはこうした相互作用を「ループ効果」と呼んだ(『何が社会的に構成されるのか』岩波書店)。

「ループ効果」は特に、概念が適用される人々の行動に焦点を当てたものだった。例えば精神医学で言えば、「統合失調症」などの診断名やそれに関連する知識は、診断の対象となりうる人々の行動を変える可能性がある。しかし概念の効果は診断を受ける人々だけでなく、診断を下す人々にも及ぶものだろう。アメリカ精神医学会は『精神疾患の統計・診断マニュアル』(DSM)を昨年改訂したが、改訂をめぐって様々な議論が展開された。中でも議論の対象となったものに、「自閉症スペクトラム障害」(ASD)という診断名の提案がある。ASDは従来の「自閉性障害」、「アスペルガー障害」、「特定不能の広汎性障害」を一つの疾患としてまとめたものである。ASDに関しては従来アスペルガー障害などの診断を受けていた人が診断対象から外れることが懸念されたが、確定版(DSM-5)では以前の版(DSM-IV)にもとづいてアスペルガー障害などの診断を受けていた人はASDに該当する旨の注意書きが付加され、一応の決着を見た。

 

診断基準の改訂はそもそも診断行為に影響を与えるために行われるものだが、その社会的な影響が明白となっている今日、診断基準の変更は政治的なイシューとなり、様々なグループがアクションを起こすことになる。診断名の変更をめぐっては、ハッキングのループ効果を織り込んだ形での、メタレベルでのループ効果が起こるのである。原理的には、人間の心理や行動を対象にしたすべての科学的研究において、この二重のループ効果が起こりうると考えられる。科学コミュニケーションにとって、この二重のループ効果をどのように扱うのかは重要な課題となるものだろう。

2014年11月21日号

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