連載エッセイVol.100を掲載しました

「合理的」なものに限る?

石原孝二

来年4月に「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」が施行され、行政機関や事業者は「社会的障壁の除去」について「合理的な配慮」を行うことが義務付けられます。この「合理的な配慮」というのは一体何なのでしょうか?なぜ「合理的」という限定がつくのでしょうか?国連の障害者権利条約の定義などをみると、「合理的な配慮」とは、配慮において「均衡」を保ち、「過度の負担を課さない」ものということを意味するようです。しかし障害をもつ人の日常的・社会的生活を妨げる社会的障壁は無条件に除去されるべきなのではないでしょうか。

ちょっと唐突ですが、私にはこの問題は、リスクに関する予防原則の適用の問題を思い起こさせます。予防原則とは、科学的な証拠が十分得られていない段階で危害をもたらす可能性がある問題に対策をとるという原則です。予防原則が国際的なルールとして初めて明確に位置づけられた1992年の国連環境開発会議(地球サミット)・リオ宣言(大竹千代子・東賢一『予防原則』合同出版など参照)では、予防原則の適用において、「費用対効果」を考慮に入れることが盛り込まれました。この「費用対効果」という要素によって、リオ宣言の中に予防原則を盛り込むことが可能になり、またリオ宣言がその後の各国の環境政策に影響を与えることを可能にしたのではないかと推測します。

費用対効果などを踏まえた「合理的」なものに限るという条件は、理念を骨抜きにする可能性がある一方で、理念を推進する側と、受け入れたくない側の合意形成を可能にするという側面もあります。社会的障壁の除去や予防原則の理念そのものに反対することは難しいと思いますが、現実には適応不可能であるとして反対することは十分可能です。しかし、必要性やコスト等を踏まえて「合理的」である限りにおいて適用するという条件で提案されると、反対することは困難でしょう。

科学は一般に、客観的で普遍的な知識を得ようとするものですが、「合理的」であるか否かの判断は状況や文脈に依存したものとならざるを得ません。そう考えると、「科学的」と「合理的」という言葉は対立するものであるようにも思えます。もっとも、科学も様々な点で費用対効果の制約に従っていると考えるならば、実際には科学もまた「合理的」なものに限られていると言えるのかもしれません。

2015年11月24日号

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