連載エッセイVol.121を掲載しました

LET’S PLAY IT BY EAR

豊田太郎

「どんなものをみたときに、それが生命だと思うか」を日本語で一言で述べてみよ、という大喜利があれば、私は「臨機応変」と答えることを試みたい。自己(情報伝達構造と柔軟な境界構造)を保つことは中心に据えた上で環境に応じて多様な術(すべ)でふるまいを変化させるもの、それが生命なのではないか-そう考えるからである。現れては消える「変幻自在」でも、中心に据えるものがなく変化する「支離滅裂」でもない。

こうした考えに至るまでの私の研究経緯や学術的知見については、また別の機会に譲るとして、私が臨機応変という言葉を初めて耳にしたのは小学生時代、母からの一言だった。あることにこだわってぐずって自己主張する私をなだめる一言だったように記憶している。次は高校時代に見聞きした文楽で、型がありながらも太夫とその場で合わせていく役の妙味の説明で、臨機応変と知った。ジャズドラマーである大学時代の友人は、楽譜通りの演奏と楽譜にない即興演奏との融和で感性が磨かれると言っていた。また、日本ではその昔、中国から導入された律令政治と折り合いをつけるべく、生活を多彩に変化させていたようで、これは「機変」と呼ばれるそうだ。英語表現を調べてみると、「RESOUCEFUL」の他にも、「LET’S PLAY IT BY EAR」という口語が最近、その場その場で対応していこうという意味に用いられるらしい。

このように、生命を端的に表す特徴が臨機応変である、との考えを持つに至って以降、研究の場のみならず、日本文化や他国の文化・外国語において、臨機応変がどのように使われているか調べてみようという楽しみが私には増えた。我々の生活や考え方にもリンクする臨機応変が生命の有り様と考えれば、これを知ることは「生命とは何か」という研究に一般の人が親しみを感じるきっかけにもなるだろう。

臨機応変に拠って地球上で持続可能な繁栄をなしてきた存在として生命システムを解釈するならば、翻って、持続可能な開発を目指す人類の国際的な取り組みや社会システムにとっても、「生命とは何か」を理解する研究の重要性はより一層増すに違いない、と考えるのは私だけではないと信じている。

2017年8月25日号


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